映画『オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分』レビュー

映画

こんにちは、こんばんは。

臘月堂、主人の南(@lowgetsudou)です🌙

今日は『オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分』の話。

作品情報

オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分

(原題:Locke)

  • 製作:2014年/イギリス・アメリカ/85分
  • 監督・脚本:スティーヴン・ナイト
  • 出演:トム・ハーディ
  • 撮影:ハリス・ザンバーラウコス
  • 編集:ジャスティン・ライト
  • 音楽:ディコン・ハインクリフェ

予告編

あらすじ

主人公アイヴァン・ロックは建築会社で優秀な現場監督として働くナイスガイ。

翌日の大仕事に備え、その夜は愛する妻と息子たちと一緒に、サッカー観戦でリラックスする筈だった。

しかし、風雲急を告げた一本の電話。

「赤ちゃんが予定より早く、今夜にも生まれそうなの」

7カ月前。一夜限りの関係を持った浮気相手からだ。

それを聞いたロックは即座にこう決意する。

「自分の子供が、生まれたそのとき絶対に立ち会うんや」

決意を固め、浮気相手が待つ病院に車を走らせるロック。

道中、電話で妻に浮気の事実を告げ、上司には翌日の大仕事を放棄する旨を知らせた。

裏切られた家族や同僚からは、怒りの電話がのべつ幕なしに襲いかかる。

しかしマックス、ロックはまっすぐに、わき目も振らず進み続けるのだった。

大切な家庭。誇りを持って打ち込む仕事。

どうして全てを捨ててまで、浮気相手と子供の元へと急ぐのか?

ロックの過去や内面に秘められたその答えが、電話とモノローグを通して明らかになっていく。

レビュー

『怒りのデスロード』『ダンケルク』に先立つ「トム・ハーディ運転しすぎ3部作」の1作目。

「イニシエーションと代償」という普遍的な主題。

そして「車内」という限定された空間で、一人の人物だけを捉え続けるソリッドシチュエーションの舞台設定。

徹底的に無駄を排除した作りの作品が、またはジャコメッティの彫刻や長谷川等伯の水墨画、ショパンのピアノなどを思わせる。

主人公は社会から求められる良識とは真逆の方向にひたすら突き進む『ヴァニシング・ポイント』のコワルスキーのような男。

彼は自分を抑圧する存在や環境、つまり象徴的な意味での"父親"を殺す過程で成長していく。

「俺は親父とは違うんだ」

"父親"の呪縛から解き放たれるために煩悶する主人公は、映画や小説で何度も描かれてきた。

血縁上の父親を、そのまま象徴的な"父親"として登場させる代表的な作品で言えば、

『オイディプス王』『スターウォーズ』『ヒミズ』『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ』などが著名だ。

ロックも同じく幼い頃に自分を捨てた父親(過去)への怒りと、自分も同じ血を引いている事へのコンプレックスを原動力に行動する。

そして父=乗り越えるべき壁に勝ち、ミッションを達成する為には、障害と代償が欠かせない。

他の「運転しすぎトム・ハーディ」映画を例に出そう。

『怒りのデスロード』ではどうか。

主人公マックスはワイブズはじめ人々を救うため、ひいては自分の心を縛り付ける過去の記憶から救うため、猛攻を仕掛けてくるイモータン・ジョー軍団と戦う。

そして守るべき胎児の死や、目的地である理想郷がそもそもなかったという喪失を経験する。

では『ダンケルク』ではどうか。

ハーディ扮する戦闘機のパイロットはダンケルク海岸に閉じ込められた友軍を救うために、刻々と迫るタイムリミット、ギリギリの燃料、敵軍のメッサーシュミットという三者による猛攻をしりぞける。

同時に、「自分は捕虜になり自由を失う」という代償を覚悟し、受け入れた。

それらが『オン・ザ・ハイウェイ』では、

現場のトラブルに関して何度もかかる同僚からの電話や、職業・家族・地位・名誉すべての喪失、という形で描かれる。

ただし今作の場合、主人公は利他精神を持ったヒーローではない。

ひたすら「他者の利害は無視して自分の信念を貫く」というエゴイスティックな動機で行動するのだ。

「自分のミッションを達成する為であれば、周囲の人間が不幸になろうとも関係ない」

修羅の道を選び突き進む人物造形は、『ファウスト』『風立ちぬ』『オール・ザット・ジャズ』『天気の子』などと近いものがある。

随所に挟まる、テーマを暗示するセリフも見逃せない。

「俺たちが作るのは55階建てのビルの土台だ。たった1ミリでも施工をミスしたならば、そのうち建物に亀裂が入り、崩壊してしまう」

このセリフは、自分のたった一度の過ちが、信頼関係という夫婦の土台を踏みにじった事、そしてそれがキャリアを崩壊させた事への戒めを含んでいる。

また、サッカーの観戦を終えた息子がロックに語りかけるセリフも重要だ。

「いつもノロマなあの選手が、今日はボールを受けるや "パスも出さずに" ドリブルで突っ走って、ゴールを決めたんだ」

ロックは家族に恵まれ仕事で成功した現在でも、幼い自分を捨てた父親という過去の亡霊に常に憑りつかれる男。

息子が語った選手のプレイは、ロックが寄り道をせず真っ直ぐに赤ちゃんが待つ病院へと向かい、コンプレックスを断ち切った事を示す。

ロックの決断と行動が、「善だ」「悪だ」という一面的な見方で捉えられないからこそ、一見すると矛盾したセリフが用意されている。

「こうすべきだった」「いや、ああすべきだった」という道徳感を挟むことは出来ない。

それにこの映画、松本隆さんが書いた「木綿のハンカチーフ」の歌詞とよく似ているのだ。

大切に思い合っていた恋人どうしが、物理的にも時間的にも距離が離れるにつれ、精神的にも距離が離れてしまう。

それを「悲しい」などの感情論ではなく、あくまで「そういうものだ」と、諦めに近いドライな視点で捉えた名曲である。

この歌詞においても恋人たちは、ロック夫妻と同じように直接会って話す事はなく、通信というドライな方法で関係を断ち切る。

「何かを得るためには、何かを捨てなければならない」

そんなシンプルな真理をシンプルに表現した、地味ながらも普遍的に価値のある映画だ。

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