映画『クイルズ』”自由な表現”を追求し続けたサドの執念

映画

こんにちは、こんばんは。

臘月堂、主人の南(@lowgetsudou)です🌙

今日は『クイルズ』の話。

作品情報

クイルズ

(原題:Quills)

  • 製作:2000年/アメリカ・ドイツ・イギリス/124分
  • 監督:フィリップ・カウフマン
  • 出演:ジェフリー・ラッシュ/ケイト・ウィンスレット/ホアキン・フェニックス/マイケル・ケイン
  • 脚本:ダグ・ライト
  • 撮影:ロジェ・ストファーズ
  • 編集:ピーター・ボイル
  • 音楽:スティーヴン・ウォーベック

予告編

レビュー

フィリップ・カウフマンは『ヘンリー&ジューン』で二人の作家と一人の女性が織りなす、ジェンダーを超えた愛を描いた。

今作は同じく作家、同時にフランス貴族であったマルキ・ド・サドを題材にした伝記映画だ。

観たきっかけは、澁澤龍彦さんが翻訳したサド『悪徳の栄え』そして『美徳の不幸』に度肝を抜かれたこと。

久々に本を開くと、過去の自分がずいぶん剣呑な表現を赤で囲み「100%同意!」とコメントを書いていた。ムシャクシャしていたのだろうか。

澁澤さんはサド『悪徳の栄え』を翻訳して日本に紹介した際、「猥褻な文書をおおっぴらに公開した」罪で起訴された。

裁判は最高裁まで持ち込まれ、判決は有罪。

このレビュー記事を書いている2019年現在から50年前、1969年の出来事だ。

その事件について澁澤さんは評論の中で以下の旨を述べている。

「"表現の自由"とは単なるお題目にすぎない」

「重要なのは"自由な表現"である」

サドを翻訳した澁澤さんを権力が抑圧したようにサド自身もまた、当時の権力によって刑務所や精神病院に閉じ込められた。

収容期間はのべ25年。

もちろん完全に不当な抑圧を受けた、わけではない。

サドは聞くだけでもおぞましい、虐待と放蕩の限りを尽くしている。

例えば

娼婦に危険な媚薬や毒薬を飲ませて楽しむ。

少女や家畜(!)に変態的な暴行を加える。

貧しい未亡人を金で釣って監禁し、変態行為に及ぶ。

これら迷惑千万な行為で刑に服したのは理解できる。

しかし。

ナポレオンは『悪徳の栄え』と『美徳の不幸』の過激な内容に大激怒。

「こんな不道徳な思想を持つ者をのさばらせておくわけにはいかん!!」

いったん自由になっていたサドは、再び牢獄にぶち込まれてしまう。

実際に起こした迷惑行為でなく、権力者や多数派にとって不都合な思想を抱き、それを公にした事で罪を着せられたのだ。

今年だと、津田大介氏が監修した「表現の不自由」展が数日で閉会に追い込まれた件が記憶に新しい。

サドはそれでも、体制によってどんなに"表現の自由"を制限されようとも、"自由な表現"をやめなかった。

牢獄に繋がれたサドは、自分自身が脱獄することは考えない。

ひたすらクイルズ(羽根ペン)を走らせ文を書き、内通者や囚人仲間と協力して文書を監獄の外に持ち出し、思想や主張だけを「脱獄」させる。

脱獄モノの名画は『抵抗』『穴』『大脱走』『ミッドナイト・エクスプレス』など枚挙にいとまがない。

どれも主人公たちが創意工夫を凝らして「身体的な」自由を手に入れようとする、血湧き肉おどる話だ。

しかしサドにとっては、生み出した作品や思想を自由に解放する事こそが最優先事項。

物理的にその場所から逃げ出さずとも、ペンで自由を獲得してしまう姿が痛快だ。

特に終盤における"伝言ゲーム"のシーンなどワクワクが止まらなかった。

赤狩りの嵐が吹き荒れる1950年代のアメリカで、公の活動を禁止されながらも匿名で映画脚本を書き続け、『スパルタカス』『黒い牡牛』『パピヨン』などで自由を謳い続けたダルトン・トランボを思い出す。

彼のパンクスピリットに溢れた半生もまた『トランボ』で映画化されているから、ぜひ観て欲しい。

きっと元気をもらえるはずだ。

他にも『シングストリート』『リトルダンサー』の主人公など表現に懸ける者たちが起こす、自由を掴むための暴力を使わない革命、芸術による革命は観ていて本当に胸が熱くなる。

今作も、『いまを生きる』も、『カッコーの巣の上で』も、主人公たちは悲劇的な結末を迎えた。

しかし。

自由を求めて敗れたとしても、その生き様に影響を受け、意志を継ぐ者が現れたとしたら?

それは勝利とは言えないだろうか。

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